第13話「 オトコ友達が多いオトコ・少ないオトコ」Vol.3

とある女子:「同性の友達が多いか少ないかなんて全くアテにならない、ってこと。クズみたいな友達が100人いたって、そんなのはただの烏合の衆。だったら、たった一人強い芯を持ってる友達がいる人のほうがスゴいよ」

 

「朱に交われば赤くなる」

人は周囲に影響されやすく、付き合う仲間や友人によって善にもなれば悪にもなる。どちらの朱に交わるか、自分の心をどんな朱色にするか、それはその人次第。

 

長い付き合いだからとか、自分にメリットがあるとか、単純に居心地がいいとか、なにかしらのしがらみがあるそれぞれの群れに属するなか、善悪だけでそこを自ら飛び出すことは簡単なことではないかもしれない。

けれど、きっと難しくはない。

自分の中に正義という名の勇気さえあれば。

 

とある女子:「聖人君子になれとは言わない。誰しも一つや二つ脛に傷はあると思うし。けど・・・」

 

自分の欲望のために、仲間や友人に悪行の片棒を担がせて平気なオトコなんて人として終わっている。そして、そんなオトコを友人として守ろうとしたり、付き合いを終わらせたくない一心で悪行をやり過ごすオトコがいたとしたら、それはもう人ではない。人の顔をした獣(けだもの)だ。

 

そのコミュニティから戦力外通告を受けないよう自分を押し殺し、そして自分の良心を殺してまで仲間の顔色を窺い、理不尽なその掟に従ってまで守るもの、それが自身の孤独への恐怖なのだとしたら、なんて悲しく虚しいオトコだろう。

 

世の中、キレイごとばかりじゃない。割り切れないこともたくさんある。

しかし、そのことを誰かを傷つけるための言い訳にすることは許されない。

 

とある女子:「ま、群れから排除されるのが怖くて、悪いことに手を染め続けるようなオトコはしょせん雑魚キャラだからさ。群れの中で言いたい事も言えず、ひたすらそこにすがって、周りのオトコたちの顔色を窺って生きてるなんてクソダサいし、しょせん物語の端役にしかなれない。そうやって、自分の人生、端役のまま生き終えるんだとしたら、そんな悲しく虚しいことはないのに、それにすら気づけない。私が可哀そうって言ったのはそういうこと。せめて自分の人生ぐらい主役であれよ、って思う」

 

カノジョの話を聞きながら、カレは自分のことを振り返っていた。

自分は自分の人生を、自分の物語の主人公として生きているだろうか。

 

とある女子:「どうせオオカミになるなら、自分の欲望のために嘘ばっかりついてるオオカミ少年とか、スケベ心しかない送りオオカミじゃなくて、孤高の一匹オオカミになれよって思う。正しいことは正しい、間違っていることは間違ってるって堂々と言えるオトコが一番カッコいいよ。仮に、腕力なくても、知力がなくても、正義っていう一本の刀で悪に立ち向かっていくなんて、想像しただけで鳥肌モンじゃん」

 

昔話に始まったカノジョの話は、カノジョたちの興奮冷めやらぬなか、いくつかの教訓を残し、そして終わった。

 

いつの時代も昔話には教訓がつきものだ。

どんな悲しい物語も、どんな残酷な物語も、そこからなにかしらの教訓を得られたなら、それはその人にとって「思い出という名の昔話」になる。

逆に、そこから何も得られないばかりか、同じようなことばかり繰り返す人の物語はいつだって軽くてつまらなく、意味のない三文小説のようなものだ。

 

自分が今いる「群れ」について、カレは考える。

そして思う。

自分は、きちんと自分の物語を生きているのだろうか?

物語の主役として、そして時に誰かの物語をサポートするバイプレーヤーとして生きているだろうか?

 

店内の緑葉たちの重なりは、カレの田舎の緑あふれる田園を彷彿させる。

生まれたところから遠く離れたその異国の地で、手元に置かれた友人の結婚式の招待状を見ながら思う。

昔のその「群れ」は変わったのだろうか?

果たして今も、あの頃のままの温かい場所なのだろうか?

 

カレは「出席」にマルをつけた。

昔の友達に会いたくなった。

つづく

 

文・山田孝之 編集・@marony_1008

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