とある女子:「本当に可哀そうなのは、ずっとダマされてるA子を見ていたオトコたちだよ」
友人:「何で??」
とある女子:「だって、オトコたちはそれがオトコの友情だと思ってるんだから」
オトコの友情?嘘をつくことが??誰かを傷つけることが???
カレには事態が呑み込めない。
おそらく、関西から転勤してきたカレは周りのオトコたちに、こう言っていたのだろう。
オトコ:「俺が既婚者ってこと、内緒にしといて」
そして、周りのオトコたちはそれを了承あるいは黙認したのだ。
仮にそこで、誰かがこう言ったとする。
「それはダメだよ」
きっと、そう言ったカレは周りから煙たがられたり、距離を置かれたり、最悪の場合、そのコミュニティから排除されてしまうかもしれない。
「空気読めよ」
「使えねぇヤツだな」
「ナニいい子ぶってんだよ」
「オトコの敵だな、お前」
そんな暴言を吐かれて。
それがイヤだから、仲間外れにされるのが怖いから、悪いことだとわかっていても、誰かを傷つけることだとしても「オトコの掟」に従わざるを得ない。
それを「オトコの付き合い」だとか「オトコとしての暗黙の了解」だとか「持ちつ持たれつ」だとか、そう「オトコの友情」なんだ、と自分を納得させ、いとも簡単にダークサイドへと堕ちていくオトコたち。
そして、そんな濁(よごれ)を受け入れることが「オトナのオトコ」になることだと思っている。
とある女子:「そういうオトコ、多いんだよ。小学校、中学校、高校、そのあとは大学とか専門とか、一足先に社会へ出る人もいるけど、結局ずっと何らかのコミュニティに所属するわけじゃない?それって縛られてるとも言うけど、守られてもいるわけ。友人関係も同じで、周りから排除されないように、仲間外れにならないために、時には自分の意に沿わないことも受け入れなきゃって思ってるオトコは多いと思う」
そうかもしれない。
コミュニティの中では、時に正しいことが正義でなく、悪を支持する多数に付き従うことが正義になってしまうことがある。
それは「数の暴力」ともいえるだろう。
とある女子:「よく、オトコはオオカミって言うけど、実際のオオカミも群れで生活してるから同じだよね。オトコのムラ社会みたいな群れからはぐれないよう、日々周りの目を気にしながら生きてる・・・可哀そうというか哀れというか」
今まで特に疑問を感じることなく日々生活していたが、確かにそうかもしれない。会社や学校の、同僚の、同級生の、先輩の、後輩の、仲間の、そして家族の、それぞれのコミュニティという名の群れのなかで、それぞれのルールの中で人は生きている。
しかし、群れの中の正義は常に正しいとは限らない。
例えば、自分のいる群れの誰かが明らかに悪いことをしようとしている時、それを止めることができるだろうか?
止めることが出来ない時、正義を貫くため、誰かを守るためにその群れからたったひとり、飛び出す勇気があるだろうか?カレは自問自答する。
とある女子:「世の中のすべてが正しいこと=正義だなんて思わないけど、誰かを傷つけたり悲しませたりした先にある正義なんてあっちゃいけないと思うんだ。そんなのは絶対、本当の正義じゃない」
誰かが真っすぐに当たり前の正義を貫こうとしている時、それを諭すために使われる言葉。
「オトナになれよ」
正論ばかり言っているのはコドモだ、と言わんばかりの上から目線の言葉。
「清濁併せ持つ」のがオトナだと言いたいのだろうが、それこそ何もわかっていない愚か者の言葉だ。
「清濁併せ持つ」ではなく「清濁併せ呑む」のが本当のオトナである。
とある女子「オトコ友達が多いオトコが必ずしもいいオトコとは限らないし、逆にオトコ友達が少ないオトコがダメなオトコとも限らない。つまり・・・」
Vol.3へつづく
文・山田孝之 編集・@marony_1008